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橋本努「社会科学と主体――ウェーバー研究の根本問題」

橋本努・橋本直人・矢野善郎編

『マックス・ヴェーバーの新世紀』未來社2000年、所収

 

 

 

1 はじめに

 

 二〇世紀における日本の社会科学の遺産を次世紀に向けて継承する場合、とりわけ重要なのは、マルクスとウェーバーの研究史であるように思われる。なかでもウェーバーの場合、近代化をめぐる諸問題を、われわれの「人生がもつ意味」だとか、われわれの「意味世界の変容」という観点から取り上げており、今なお精神史的な興味関心をかき立ててやまない。現時点から振り返るならば、二〇世紀日本におけるウェーバー研究の中心は、戦前であれ戦後であれ、「ウェーバー的精神」なるものをめぐって展開されてきたと言うことができるだろう。そこにおいては、「ウェーバーはどう生きたのか」とか、「ウェーバーは社会科学の営みによってどのような精神性に達したのか」という問いをめぐって、意義深い研究が提出されてきた。

 もっとも丸山真男[丸山 1965]が指摘するように、ウェーバーの生き方やエートス論から「求道者精神」をつかみ取るというたぐいのウェーバー研究は、ロマン主義的ないし感傷主義的な「道徳主義」に陥る危険がある。言い換えれば、そのような研究は、結果としてたんに道徳を説くだけの説教におわってしまいかねない。しかし「道徳」を反省する規範理論の立場からみるならば、ウェーバー研究の背後には一つの根本問題が想定されていたとみることができるだろう。それはすなわち、「社会科学の営みは、いかなる人間を陶冶しうるのか」という人間学の問いである。「われわれは、社会を認識するという営みにおいて、はたして善く生きることが可能なのだろうか」――この問いは規範理論からみた場合に、社会認識というものが抱える一つの根本問題として現れてくる。

 近代とともに発生した社会科学の営みは、その当初から、近代社会のよき担い手としての「近代主体」というものを想定してきた。「近代主体」とは、いわゆる主体的・自律的に生きることの理想である。そのような主体は、社会科学の営みによって陶冶可能(学習可能)であると考えられてきた。またウェーバーおよびウェーバー研究においては、一つの中心テーマをなしてきた。しかし今日では、「主体」という人格がそもそも理想なのかどうかについて、懐疑的な見解が多く表明されている。とりわけ一九八〇年代以降、「ポスト近代」こそがわれわれの時代であり、近代主体はもはや理想たりえないと主張されている。ではいったい、近代主体というものが理想でなければ、われわれはいかなる人格の理想を語りうるのだろうか。本稿では、新たなる主体の理想について、ウェーバー研究に内在しながら検討してみたい。

 以下ではまず、主体をめぐるわれわれの問題状況について、批判的に検討する。次に、「近代主体」の理念を検討しつつ、それに代替しうる人格の理念として、「問題主体」というモデルを提示する。第三に、「価値自由」論において想定される人格の理念を検討し、そこにおいて「問題主体」の理念が有効であることを論じる。最後に、「われわれは近代とポスト近代の狭間にいるのか」という問いを立て、新たに「第二近代」という対抗的な時代認定を提示する。

 

 

2 主体をめぐる問題状況

 

 「主体」とは、果たしてわれわれの理想なのだろうか。社会科学の営みによって「主体」を陶冶すべきだという見解は、従来の社会科学において、暗に想定されてきた道徳であった。しかしわれわれは現在、この主張に対して次のような破壊的批判を目の当たりにしている。

 まず、徹底した懐疑主義の見解がある。それによれば、社会科学が学問の名において主体的な生き方を強制するのは、お節介である。社会科学が科学であるためには、あらゆる価値から自由にならなければならない。社会科学を学ぶ意義は、価値へのコミットメントを相対化することにあるはずだ。これに対して、主体性といった価値を素朴に信じる社会科学者は、すでに社会を徹底的に懐疑して認識するという態度を失っているのである。云々。

 こうした批判はなるほど、根源的な要求を突きつけている。すなわち、学問という営みはあらゆる価値現象を方法的に懐疑するべきだという要求である。しかし問題は、価値に対する徹底した懐疑というものが、多くの場合、社会に対する冷笑的な態度(シニシズム)をもたらすという点にある。社会を認識する営みが冷笑的態度を蔓延させるならば、それは政治的判断力の未熟な人間を輩出することになるだろう。また社会科学はその意図せざる結果として、例えば全体主義に適合的な精神風土を準備することにもなろう。主体への懐疑は、それ自体としては社会認識に相応しい態度であるとしても、その実践的含意としては、社会の条件を掘り崩す危険がある。それゆえ主体に対する懐疑は、何らかの規範論的学問によって吟味されなければならない。

 第二の批判として、社会科学的営為の実態を暴くものがある。すなわち、社会科学を学んでも、主体的に自律した人間になるとは限らない。もっと言えば、社会科学と主体性のあいだには、何の関係もない。その証拠に、社会科学者の多くは人格が破綻している。また、たとえウェーバーを勉強しても、自律した主体性を獲得できるわけではない。主体性を陶冶したいのであれば、社会科学以外の営みを求めるべきだろう。社会科学の課題はむしろ、社会をよりよく認識(理解や説明)することにあるのだから、自らの生き方に関する議論は必要ない。云々。

 この種の批判に対しては、逆に次のように問いただすべきである。すなわち、多くの社会科学者は、社会科学の学的成長に貢献できるわけではない。もっと言えば、社会科学者になることと知的貢献をなすことのあいだには、弱い因果関係しかない。だとすれば、社会科学者たちの社会的存在意義はどこにあるのか。あるいは社会科学を学ぶことの意義はどこにあるのか。社会科学の営みと人格の陶冶の関係をまったく切り離してしまうならば、かえって悪しきエリート主義をはびこらせてしまうのではないか。こうした問題を、批判者たちに投げ返したい。誤解のないように補えば、社会科学者の多くは、決して人格破綻者ではない。社会科学の営みが何らかの人格陶冶を可能にするならば、その可能性を教育の理想として語ることは、なお可能であるように思われる。

 最後に、以上の二つの批判と類似したものとして、専門研究と教養の分離を正当化する議論がある。すなわち、どの社会科学の分野においても、そこでは専門的な研究業績が望まれているのであって、全人格を発展させるという教養の理想は断念しなければならない。ウェーバーの場合においても、全人格の発展という理想はすでに断念されていたのであり、そこにおいて「職業としての学問」の課題は、「知の成長」に仕えることにあるとされている。社会科学もまた、そのような専門科学の営みを運命づけられているのであり、社会科学者は安易に人格の理想など語ってはいけない。云々。

 こうした主張はある意味でもっともなのであるが、しかし次のように答えることができる。なるほど社会科学は、全人格の発展を引き受けることはできないが、たんなる道具的専門人を輩出する以上のことはできる。社会科学はその中間に、部分的ではあるが、人格の理想を掲げることができる。ウェーバーはそのような人格について断片的に語ったにすぎないが、その後のウェーバー研究をふまえるならば、われわれは社会科学が陶冶しうる人格の理想というものを、再度語り直すことができるだろう。われわれは、専門的な社会科学を破棄して総合的な人文学の伝統に戻ろうとするのではなく、また逆に、社会科学を認知的・道具的な理由からのみ正統化しようとするのでもない。われわれは、専門分化した社会科学の営みにおいて陶冶しうる(部分的な)人格というものを、新たに語り直すことができるのである。

 ではわれわれは、「主体」という人格の理想をいかに構想することができるのだろうか。次に、ウェーバーおよびウェーバー研究において提出された「近代主体」の理念を検討しつつ、これに代わる理想として、「問題主体」というモデルを提出したい。

 

 

3 近代主体と問題主体

 

 「近代主体」とは、いわゆる「自由で自律的な主体」をいう。その特徴は、目的合理性を考慮し、合理的(理性的)に判断する能力をもち、一定の価値基準を精神の中心に据え、そしてその基準に準拠しつつ、恒常的に一貫した振舞を成しうる、という点にある。このような意味における「近代主体」は、近代社会を担う人間の理想であると考えられてきた。また同時に、社会科学が陶冶すべき人格の理念として、二〇世紀の社会科学が掲げる基底的な道徳であるとみなされてきた。

 「近代主体」の人格理念は、時代とともにさまざまな観点から肉付けされてきた。とりわけウェーバー研究に即して「近代主体」の特徴を追補するならば、さらに以下のような諸特徴を挙げることができるだろう。

 まず近代主体は、自分の精神の中心に「究極的な価値」を設定する。例えば、私は「愛」という価値を自らの中心に据えるとか、あるいは「正義」という理念を自らの中心に据える、といった具合に、各人は自身の人格のコアに究極の価値を据える。もっとも、究極の価値は複数でもかわない。ただしその場合でも、価値は明確に規定しうるものでなければならない。次に、近代主体はそうした諸価値から、他の諸価値、諸目標、諸手段を、階層的・組織的に位置づけて、人格全体を価値と目的と手段の合理的な体系として設計していかねばならない。近代主体は、自らの価値体系を構築し設立することにおいて、十全な自律を成し遂げることができる。

 他方において「近代主体」は、実践的な場面においては、実存的統一を示すことができなければならない。すなわち、具体的問題に直面したならば、そこにおいてすぐれた振舞とエートスを示さなければならない。また近代主体は、相矛盾する現実の諸側面のあいだで、それを横断するような実存的統一を示すことができなければならない。実存的統一とはこのように、強度をもった実践の連続において、生の統一感をもつことを意味する。(このような主体像は、とりわけヤスパースのウェーバー解釈において示された。)

 近代主体はさらに、社会科学の方法的態度を身につけていなければならない。すなわち、認知的理性を用いて、他者とのコミュニケーションをすぐれた方向へ導くことができなければならない。なるほど社会科学の認識は、先に述べたような、価値設定の自律や究極的価値の反省を促すことができる。しかしそれだけに留まらず、社会科学の態度は、知的に誠実であることを倫理的に要請し、討議によって自らの価値観点を明確に示すことを求めている。

 さらに近代主体は、認知的な場面に留まらず、実践的な場面においても、社会の出来事について自分なりの観点から「意味」を与えていくことができる人間でなければならない。他者との公共的なコミュニケーション空間において、新たな意味世界を構築していくことができるという人格の理想は、「文化人」と呼ばれる。(この文化人の理想をウェーバーから読み取るものとして、中野敏男のウェーバー解釈がある)。

 最後に近代主体は、社会変革を担いうる人間として理想化されることがある。それは認知的レベルにおいては、「賤民知識人」の理想となる。すなわち、社会の中心ではなく周辺的な場所に追いやられつつも、そこから社会全体を根底的・体系的に捉え返し、それによって既存の社会を変革するためのヴィジョンを与えるという人格の理想である。(この解釈はとりわけ折原浩のウェーバー解釈において描かれた。)これに対して実践的なレベルにおいては、近代主体は「変革主体」の理想となる。すなわち、既存の社会をラディカルに変革するために必要な精神的諸特徴をもち、その変革を担う人間である。(内田芳明のウェーバー解釈においては、政治的な民衆扇動家としての予言者が描かれた)。

 以上の諸特徴は、これまでウェーバーの著作や人生の中から読み込まれた「近代主体」の諸理念である。しかしこうした「近代主体」の人格理念は、拙著『社会科学の人間学』[橋本 1999]で詳しく論じたように、さまざまな点で問題をはらんでいることが分かる。例えば、究極的価値におけるパラドクスの問題、実存主義的な人格評価の危うさ、良心の問題、究極的価値の変更という問題、文化人における意味喪失の問題、周辺的社会状況の喪失という問題、マルクス的な社会変革理念の無効性、といった問題がある。私見によれば、近代主体の理念は、こうした諸問題を克服できないことから、十分に満足のいく理想であるとはいえない。近代主体は、その理念の概念的一貫性という点からしても、また、その理念の歴史・社会的な有効性という点からしても、もはや有効な理念たりえない。

 では、われわれは、近代主体に代わるどのような人格の理想を描くことができるだろうか。いわゆるポスト・モダニズムの見地に立てば、そもそも人格の理想を掲げること自体が胡散臭いように見えるだろう。崇高な道徳の実践は、それ自体が権力作用をもつ以上、脱構築しなければならないからだ。またいわゆるポピュリズムの見地に立てば、人格の理想を掲げることは、それ自体がエリート主義の傲慢であるようにみえるだろう。いかなる崇高な人格の理想も、日常道徳においては必要がないとみなされるからだ。

 こうした批判に対してわれわれは、なお語りうる人格の理想があると考える。ポスト・モダニズムにおける脱構築は、道徳や政治の実践に対してシニカルな態度をもたらす点に問題がある。またポピュリズムにおける日常の肯定は、かえって教育の理念(教育基本法が掲げる「人格の完成」)に対する絶望をもたらす点に危険がある。これに対して人格の理想を掲げることは、一方においてシニカルな理性を食い止めつつ、他方において理念なき教育に歯止めをかけることができるだろう。そのような人格の理想として、われわれは、「近代主体」に代わる「問題主体」なるモデルを掲げたい。

 「問題主体」というアイディアは、とても単純な発想から生まれている。それは人格のコアに、「価値」ではなく「問題」を据える、と考えるのである。言い換えれば、人格というものが「問題」から成り立っていると考えて、自ら自分の問題を選び取ることが主体の理想だとみなすわけである。このような「問題主体」は、理想的な主体像が満たすべき「自律」という条件をクリアしている。しかしそれは、「近代主体」とはまったく異なる諸特徴をもっており、近代主体とは拮抗する別の理想であるといえるだろう。これまで「主体」の理想は、自分で自分のことを決めるという場合に、決定すべきは自らの「究極的価値」であると想定してきた。しかし自らの究極的価値を選び取ることは、実際にはきわめて危険である。そのような態度は、自ら選んだ価値によって束縛され、独断的になることを回避できないだろう。また、究極的価値を選び取ってしまっては、さらなる人格の成長を目指すという契機を失うだろう。

 そこで人格の中心におくべきは、「価値」ではなくて、むしろ「問題」であると考えみてはどうだろうか。人格のコアに「究極の問題」を据えるならば、価値に対する独断的な態度を防ぐことができる。また、究極の問題を探求するという態度は、それに対する応答の過程において、人格を成長させることに資するだろう。「問題主体」は、人格のコアに「問題」を設定する。そしてその問題から派生する諸問題を、一つの系(コロラリー)として構成していこうとする。「問題主体」は、一連の諸問題を設定することによって自律するのであり、たんに他者が投げかける問題に呼応するだけでなく、自ら問題を立て、その系を構成していく存在である。また「問題主体」は、成熟した多文化的状況において、内発的な創造を企てることができる。さらに、自ら立てた問題が他者にとって迫真的であるならば、その迫真性の伝達によって、すぐれた社会変革を導くことができるだろう。

 この他にも問題主体の特徴は、さまざまな観点から詳しく記述することができる。例えば人格の特性、問題の特性、問題設定の特性、問題と価値の関係、実践的振舞、といった観点からである。しかし問題主体の詳しい解明については別に論じたので、ここでは繰り返さない[橋本 1999]。重要な点は、われわれは「近代主体」の諸特徴をすべて破棄したとしても、主体の理想を別様に構想しうるということである。それゆえわれわれは、主体の理想それ自体を否定する必要はない。否定すべきは「近代主体」の諸特徴であって、主体そのものではない。ポスト・モダニズムにおける近代批判においては、この点が明確にされなかったために、主体的であることの不可能性が強調されることになった。しかし「近代主体」に対する批判を超えて、われわれは主体の理想を語りうるのである。(「問題主体」の特徴を「近代主体」との対比で捉えるならば、次表のようにまとめることができるだろう。)

 

表:近代主体と問題主体の対比

近代主体の六類型

近代主体の特徴

問題主体の特徴

究極的価値の設計主体

価値をコアにおく

問題をコアにおく

実践的人間

実存的な統一

問題系の統一

社会科学的人間

価値観点による自律

問題観点による自律

文化人

意味を与える存在

問題を与える存在

賤民知識人

周辺からの変革志向

多文化的状況からの内発的創造

変革主体としての予言者

予言の迫真性

問題の迫真性

 

 

4 価値自由と人格理念

 

 では「問題主体」という人格は、いかにして陶冶可能なのだろうか。社会科学の営みにおいて問題主体の陶冶は、とりわけ「価値自由」というウェーバーの方法的態度を、一定の方向に解釈した場合に可能となるだろう。「価値自由」はこれまで、とりわけ「近代主体」を想定する方法論であると考えられてきた。しかし私は別の解釈を提示することによって、「価値自由」という方法が、「問題主体」を陶冶する機能をもつと主張する。この点を説明するために、ウェーバー自身の研究を例にとりあげて検討してみよう。

 ウェーバーは『宗教社会学論集』の序言において、次のように問題を立てた。「いったい、どのような連鎖が存在したために、ほかならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化諸現象が姿を現すことになったのか」[Weber GARST:1『論選』5頁]。簡単に言えば、なぜ西欧において近代文化のヘゲモニーが成立したのか。この問題は、ウェーバーにおいては「西洋近代に固有な特徴とは何か」という問題に解釈=転位され、そしてそこから、「自由な労働の合理的組織をもつ市民的な経営資本主義の成立」という答えが提示されるに至る。さらに論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、下位問題として、「そのような市民的経営の資本主義が成立するためには、どのような道徳的資質が原因となるか」という問題が立てられる。そしてその答えは、非宗教的な啓蒙主義の倫理ではなく、「プロテスタンティズムの倫理」、すなわち「禁欲的職業人のエートス」であるとされる[Weber GARST:54-55『プロ倫』79-81頁]。プロテスタンティズムの倫理は、意図しない結果として西欧に固有の資本主義を生み出す一因となった。これがウェーバーのプロ倫テーゼである。

 以上のウェーバーの議論を簡略して定式化すると、次のようになる。

 

 問題(1):西欧近代文化のヘゲモニーの特徴は何か。

 答え(1):市民的経営の資本主義である。

 問題(2):市民的経営の資本主義を成立させた道徳的資質は何か。

 答え(2):プロテスタンティズムの倫理である。

 

 このような問題と答えを与える研究の背後には、いったい、どのような価値観点や価値判断が関与しているのだろうか。以上の問答は、一見すると、「プロテスタンティズムの倫理」こそが「西欧近代文化のヘゲモニー」を生み出したと主張しているようにみえる。しかしウェーバーによれば、「プロテスタンティズムの倫理」は、西洋近代文化を生み出した最重要の原因というわけではない。それは無数にある因果連関の中の一つにすぎないとされる。ではなぜ、「プロテスタンティズムの倫理」が原因として摘出されたのだろうか。ウェーバーによれば、それは研究者の観点からみて、「知るに値する」意義をもっているからである。なるほど別の研究者であれば、同じ問題に対して別の因果連関に関心を寄せるだろう。しかしウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理」こそ、知るに値する原因であると考えたのであった。

 こうした問答における因果帰属は、研究者の「観点」を重要な要素としている。また研究者の観点が一定の評価を含む場合には、そこには「価値自由」という方法的態度をめぐる問題が発生する。「価値自由」とは、社会科学の営みにおいて、研究者は価値に関して自由であるべきだとする方法論的要請である。しかしこの「価値自由」という方法については、「自由」とは何であるかをめぐって、さまざまな解釈が提出されてきた。最も標準的な解釈は、「価値を選び取る(積極的な)自由」というものであり、そこにおいては「近代主体」というものが人格の理想として想定されてきた。そこで次に、「価値自由」に関する「近代主体」的解釈を、先に挙げた問答に即して検討してみよう。

 近代主体的解釈によれば、先の問答は、次のような価値観点を想定している。すなわち、「われわれは、現代文明を発展させるために、最も適合的な価値(=エートス)を担うべきである」という要請である。そしてこの要請から、「そのためには何が因果的に適合的なエートスであるか」という問題を立てる。次に、この問題を学問的に探求し、その答えとして、ある特定の適合的なエートスを確定する。得られた答えとしてのエートスは、まさに本人が引き受けるべきエートスであると価値判断される。つまり、ここで立てられた学問的問題に対する答えは、同時に価値判断の内容でもあり、自己の生き方として選びとるべきものとなる。

 例えば、現代文明を発展させるために適合的なエートスは何かという問題に対して、「中産階級の勤勉さ」という答えを確定したとしよう。ならばそこから、その勤勉さを自らの価値として生きるべきである、という価値判断が導かれる。このように、まず価値観点をもち、そこから学問的に問題を設定して因果適合分析を行い、そこで得られた答えを価値判断として支持するならば、価値観点と問題と答えと価値判断の四つはすべて、演繹的に結びつくことになる。このような考え方は、大塚久雄のウェーバー解釈によって示された[大塚 1969a:94,100]。われわれはこれを、方法論における「近代主体」モデルと呼ぶことができるだろう。

 「近代主体」モデルは、社会科学の方法によって、究極的価値を人格のコアにおく主体を陶冶できると考える。その場合、「価値自由」は、価値評価を、心情告白という私秘的な場面へ追いやるのではなく、むしろ、価値に対して「態度を引き受ける」ように人格を陶冶する。通説となった安藤英治の解釈によれば、「価値自由」には二つの意味があって、一つは「没評価性」であり、もう一つは「自らの価値理念を明確に保持しつつそれに囚われないで、価値理念を自覚的に自己統制する」という態度の要請である。この後者の要請は、「近代主体」を陶冶するものであり、それは「価値への自由」という「積極的自由」であると言い換えることもできる[向井 1997:223]。積極的自由とは、一つの価値を自発的に決断し、それに従って一貫して生きていくことである。「自己の価値世界といかに異なった価値世界と対立してもいささかも揺らぐことのない自立性──この自己確信の強さがあってはじめて事実を事実として認識することができる」[安藤1965:104]。その場合、「価値自由」であることの条件は、「明確な実践的価値評価が、主体的なセルフ・コントロールのもとに掌握されて、自覚的な『価値関係』を形成し、認識されるべき対象を照らし出す」ことである[折原1977:54-55]。この意味における「価値自由」は、事実と価値判断の境界をはっきりと認識し、結果に対する予測を試みつつ、自分が立脚する観点に対して責任を負うことを要請する。したがって、価値評価を没却したり、中立の立場をとることは認められない。

 以上の解釈を簡略して示すと、次のようになる。

 

 価値観点:われわれは現代文明に適合的な価値を人格のコアに引き受けるべきである。

 問題:現代文明に適合的な価値(エートス)は何か。

 答え:プロテスタンティズムの倫理である。

 価値判断:われわれはプロテスタンティズムの倫理を人格のコアに引き受けるべきである。

 

 このように社会科学における問答は、「価値自由」の要請を満たすために、一定の前提(価値観点)と一定の帰結(価値判断)を要請している。そしてそのことによって社会科学の営みは、「近代主体」を陶冶することができるとみなされる。

 しかし、こうした近代主体の想定に対しては、これまで二つの批判が提出されてきた。一つは「精神的貴族主義」的解釈と呼びうる見解であり、もう一つは「可能主体」的解釈と呼びうる見解である。詳しくは別に論じたが、その要点のみを簡略して提示すると、次のようになる。まず「精神的貴族主義」的解釈とは、次のようなものである。

 

 価値観点:われわれは現代文明に適合的な価値を人格のコアに引き受けるべきである。

 現状認識:現代はすでに「近代のたそがれ(twilight)」期にあり、近代文明を発展させたエートスをいまさら担っても無意味である。

 問題:現代ではなく、それ以前の近代文明には何が因果的に適合的なエートスであったか。

 答え:プロテスタンティズムの倫理である。

 価値判断:われわれはもはやこの倫理を担いえない。この悲観的運命性を直視し、その認識に耐えなければならない。

 

 以上の解釈は、とりわけ山之内靖のウェーバー解釈によって示された[山之内1993]。ここでは「近代主体」的解釈と同様に、「価値自由」というものが、一定の価値判断を導きうると想定されている。すなわち価値判断は、「近代的な価値としてのプロテスタンティズムの倫理」を、もはや担いえないものとして、それに耐えるための倫理を準演繹的に導き出している。これに対してもう一つ別の解釈として、「可能主体」的解釈というものがある。それを簡略して示すと、次のようになる。

 

 価値観点:われわれは現代文明に適合的な価値を人格のコアに引き受けるべきである。

 現状認識:近代から現代への移行は、選びうる価値の多元化と偶有化をもたらした。

 問題:現代ではなく、それ以前の近代文明には何が因果的に適合的なエートスであったか。

 答え:プロテスタンティズムの倫理である。

 含意:われわれが担いうる価値は選択に開かれている。学問は、その選択可能性を開示するのみであり、特定の価値判断を演繹することはできない。

 

 以上のような「可能主体」的解釈は、折原浩のウェーバー像を私なりに解釈したものである。折原によれば、ウェーバーは、近代西欧文化を支持したのではなく、それのもつ「問題性」に関心をもっていたのであり、近代を問題化することで、新しい人生に乗りだそうと身構えていた。しかしその新しい人生は、われわれ自身の問題として残されたという[折原1965:270-71]。それゆえ社会科学にできることは、各人が自らの価値を選ぶために、可能な価値の選択肢を多く知るような人格を陶冶することだ、と考えるのである。

 しかしこの「可能主体」的解釈をさらに押し進めるならば、人格のコアに「問題」をおく「問題主体」のモデルを構成することができるだろう。実際、ウェーバーの価値自由論は、問題主体の観点から解釈しうる余地を残している。そこで次に、私はこれまで提出されていない非公認解釈として、「問題主体」的解釈というものを提出したい。

 「問題主体」はまず、価値観点として、「現代文明において意義のある問題を担うことによって、すぐれたエートスを示すべきだ」と考える。次に、学問的に探求すべき問題として、いくつか複数の評価が帰属されるような、価値について争いうる問題を設定し、その問題を複数の価値観点から考察していく。例えば、「近代は、はたしてよい社会といえるのか」という問題を立てて、さまざまな応答の可能性を検討する。このやり方は、価値を偶有化し、価値判断の諸可能性を明示化するという点では、「可能主体」的解釈と同じである。しかし「問題主体」は、さらに問題に深くコミットメントして、問題を人格のコアに据えようとする。既存の解釈における人格モデルは、「価値」を人格のコアに引き受ける主体を想定していた。これに対してわれわれの「問題主体」的解釈は、「価値」を仮説として捉え、人格のコアに引き受けるべきは「問題」であると考える。

 問題を実践的意欲のレベルで引き受けるならば、彼は、その問題に対して応答可能な複数の価値判断を、自らの精神のうちで拮抗させることができる(「拮抗的高揚主体」)。そしてまた、問題に準拠して、価値判断を変更することもできる(仮説としての価値判断)。「問題主体」はこのように、学問的問答の「答え」ではなく、その「問題」を人格の基本要素として引き受ける。引き受けられた問題は、それが意義をもつという点では、なるほど価値性を帯びている。しかし価値と問題は、次の点で鋭く区別される。すなわち、一つの問題には多くの価値関心が付着しており、「この問題が重要だ」ということ以上にその意義と理由を一義的に遡ることはできないという点である。各問題は、多くの価値関心を含みながら設定される。問題主体は、一つの価値関心から多くの問題を整序するのではなく、一つの問題に多くの価値関心を帰属する点で、人格の内部に価値の多元主義を実現することができる。この点において、問題主体は他の人格モデル(「近代主体」「精神的貴族主義」「可能主体」)と区別される。

 このように、先述の問答を「問題主体」の陶冶という点から捉え返すならば、「価値自由」という方法論的要請もまた、問題主体の陶冶に資すると解釈することができる。私の解釈では、「価値自由」は次のような機能をもっている。

 まず、ウェーバーのいう価値自由は、「経験科学の問題」と「価値問題」を明確に区別することを要求している、という点に着目したい。経験科学の問題は、「question-answer」の形式によって、一義的な解答を得ようとする。これに対して、現実の価値を争う「価値問題」は、世界観を争う問題であり、一義的な解答を得ることができない。そこで「価値問題」に対しては、各人が自分にとって適切だと思う「応答」を見つけることが課題となる。つまり「価値問題」とは、「question-answer」の形式によって問題を「解く」ものではなく、「problem-response」の形式によって問題に「応答」を試みるものである。ウェーバーは、一方では、経験科学によって一義的な解答を得ることのできる「question-answer」形式の問題を技術的問題とみなし、他方では、一義的に答えることのできない「problem-response」形式の問題を「意味問題」であるとした。その場合、「価値問題」においては、自分で問題設定することを引き受けなければならない。それゆえ、「価値自由」という方法は、各人にそのような「問題」を自覚させ、その問題にコミットメントすることができるように人格を陶冶する機能をもっていると解釈できる[1]

 以上のように、「価値自由」に関する私の非公認的解釈は、「問題主体」の陶冶に適合的なものである。社会科学の営みは、価値自由という方法論的要請を通じて、問題主体を陶冶することができる。われわれは「近代主体」という人格の理想に対して懐疑的になるとしても、主体の理想を別様に語りうるのである。

 

 

5 われわれは近代とポスト近代の狭間にいるのか

 

 「主体」の理想を新たに語り直すことができるとすれば、「ポスト近代」という時代認定もまた再検討されなければならないだろう。一九八〇年代以降の時代認識として、われわれの時代は「近代からポスト近代に移行した」という漠然とした図式的理解は、依然として多くの人気を集めているように思われる。しかし良識ある人々は、近代的な価値観がすべて不要になったとは考えず、われわれは「近代とポスト近代の狭間にあって、両者の価値を矛盾しながら保持しなければならない」と主張している。近代的な価値は必要であるが、しかしそれらは縮小して保持しなければならないというわけである。

 だが、はたして「ポスト近代」という時代認定はどこまで妥当なのだろうか。この点を精査してみる必要がある。「問題主体」というわれわれの人格モデルが有効であるとすれば、われわれは「近代主体」が有効性をもちえた時代に代えて、「問題主体」が有効性をもちうるような「第二近代」なる社会を展望することができるだろう。社会は今後、これまでとは別の近代性を獲得していくと考えるならば、「ポスト近代」という時代認定は、第一近代が「たそがれ」を迎えたことに対する過渡期的な認識にすぎない。別の観点からみれば、「ポスト近代」は、新たな近代(第二近代)の始まりとして位置づけることができるだろう。

 そこで「近代とポスト近代の狭間」という時代認定を、ウェーバー研究に即して検討してみよう。山之内靖氏に代表されるウェーバー理解は、ウェーバー本人を近代とポスト近代の境界地点に位置づけることによって、両方の価値を分裂しながら担うことの重要性を主張している[山之内 1997a]。すなわち、一方では「予測可能性」を社会科学的に認識するという近代主体の実践を掲げつつも、他方では苛酷な運命を受苦として引き受け、「騎士精神」の陶冶を企てることが、ウェーバーの生き方から学びうる倫理であるとしている。そこにおいては、主体的自律と受苦的運命という二つの理想が、「近代からポスト近代へ」という時代の流れのなかに位置づけられ、これら二つの時代の狭間に立つことが重要であるとみなされている。しかしこうした時代認定には、次のような難点がある。すなわち、近代主体が理念として有効性をもちえた「第一近代」を経験していない人は、そのような主体の理想を「断念」することや、それに伴う受苦の感覚をもつことはないだろう、という点である。それゆえ「近代とポスト近代の狭間」という認識は、特殊世代的な時代経験に留まるのではないかという疑念が生じる。

 こうした疑問は、近代の理想を限定的に捉えることにも起因している。もしわれわれが、近代のもちうる価値的ポテンシャルを新たに引き出すことができるならば、近代主体が掲げる「予測可能性」の限界は、「主体」の限界ではないことが理解されるだろう。第一近代においては、一定の近代的価値にもとづく予測と管理が重視されてきた。これに対して第二近代においては、多元的価値の拮抗を問題化する主体によって、神々の闘争は人格内において継承されるのであり、そこでは新たなる不透明性が生じる一方で、新たな価値のポテンシャルを成長させていく主体というものを構想することができるだろう。

 また第二近代においては、主体の再編に伴う「価値の地平融合」が起こりうる。運命的なものと主体的なものは、別のところで詳しく論じたように、弁証法的に結びつく関係にある。ある意味で、主体的に生きざるをえないということがすでに受苦なのであり、受苦と主体性は、分裂的というよりも融和的である。第二近代においては、「受苦」は主体の特徴として位置づけなおされなければならないだろう。そもそも騎士精神をもった受苦者は、誰にも頼らずに覚めた認識の一点によって自己を支えなければならないのであり、彼は「受苦者の連帯」によって自らの受苦を和らげることはできないはずである。騎士精神は、自らの運命=受苦を認知的・美的に昇華することはできても、連帯によって倫理的に和らげることはできない。受苦において善き生を獲得するという「受苦の神義論」は、「主体」の存在論的な倫理として位置づけ直されなければならない。それは諸価値の拮抗的高揚を通じて主体の内発的成長を試みるような、問題主体の理念に接続することができよう。

 このようにわれわれは、第二近代という時代認定の中で、既存の近代観が見失ってきた価値的ポテンシャルを、主体のなかに取り込むことができるだろう。来たるべき新たな時代を切り開く人間は、第二近代を担う主体である。われわれはそのような人間を陶冶するために、社会科学によって陶冶しうる人間の学というものを必要としている。

 

 

□参考文献

Weber GARST:1『論選』5頁

Weber GARST:54-55『プロ倫』79-81頁

Weber, Marianne 1926→19843

大塚久雄[1969a]

向井[1997]

安藤[1965]

折原[1965]

折原[1996a,1996b]

折原[1977]

折原[1996a]

山之内[1993][1999]

内田芳明[1990]

Parsons[1965=1976]

中野敏男[1983]

丸山真男[1965](シンポジウムの論文集)

橋本努[1999]『社会科学の人間学』

 

 

[追記] 丸山真男[1965]は、今から約三五年前のウェーバー・シンポジウムにおいて、戦前の日本におけるウェーバー研究者たちの価値観点をさぐるという趣旨の報告を行なっている。その報告は、手堅すぎて、しかも内容の薄いものではあったが、今になってみると、その意義は増したように思われる。というのも、それ以降、日本のウェーバー研究は飛躍的に発展し、かつての丸山の研究は、二〇世紀日本の精神史をたどる作業として、一つの意義をもつようになったからである。別の言い方をすれば、丸山真男はウェーバー産業(蛸壺的かつ発展的なウェーバー研究)という学問の伝統を受け入れ、承認し、この伝統のなかにささやかな貢献をなしたのであった。

 

 



[1]  ウェーバーは、価値問題を自然科学的に扱おうとする立場に対して、それが「価値自由」でないと批判する。その理由は、「価値について争われる場合には、問題はまったく別の、あらゆる証明可能な〈科学〉から遠ざかった精神の地平に投射される」からであり、そこでは「まったく異質な問題設定」がなされるからである[Weber, Marianne 1926→19843:384=1963:290]。またウェーバーは、「世界を動かす意義の問題、一人の人間の心を動かすというある意味で最高の問題が、技術的=経済的な問題に変えられ、一つの専門的学問分野の議論の対象とされることに堪えられない」と述べている[ibid. 1926→19843:423=1963:319]。この部分を積極的に読み込むと、「価値問題を設定する機能としての価値自由(「問題自由」)という解釈が得られる。なお「問題自由」という私の解釈について、詳しくは橋本努[1999]を参照されたい。